ついに明かされるときが来た!!

神出鬼没天上天下唯我独尊的やねうらおのプロフィール!

 

保育所時代、電気のコンセントを分解中に落雷があり、感電して病院へ運ばれるが奇跡的に生還をとげる。以来、自分のことを天才児だと信じるようになる。しばらくのちに「保育所の連中は幼稚だから僕は幼稚園に行く」などとわけのわからんことを言いながら保育所を自主退学。親からは「あんたが、毎日、ちゃんと保育所行ってくれんと、アタシ仕事おちおち行かれへんやないの!」と激励を受ける。当時の口癖は、「ぼくちんはぷんぷんでちゅよ!!」

幼稚園時代、ワンボードマイクロコンピュータTK80が発売され、Z80ネイティブプログラミングにはまる。幼稚園の朝礼の最中に、自作のもぐら叩きゲームのデバッグをやっていたが、先生に見つかりTK80を取り上げられて以来、教育とは暴力であると認識する。さらに、ピンク色の象の滑り台の上で「ε-δ論法は微積分を教えるのに必要なのかという命題は、僕にとってあまりに幼稚すぎる」などと高らかに宣言したあと、「デ・ビ〜ル!!」(当時流行ってたデビルマンの真似だ!)と叫びながら滑り降りてくるパフォーマンス精神旺盛な少年であった。

小学1年入学当時、文学にハマる。早稲田文学を購読し、ゲーデルの不完全性定理に基づき、批評行為はそもそも不可能であるという理論を構築。それを木曜日の終わりの会で発表したところ、最前列に鎮座していた山田君に、死ね!と言われる。以来、人間存在すべてを憎むに至る。

小学1年の夏休み、自由研究課題と称して、楽典を読み漁る。自動作曲のための音楽理論を構築。1/fのゆらぎパラメータやファジー理論を取り入れた画期的な音楽理論を論述形式で夏休みの宿題として提出したところ、担任の倉田先生からは「夏休みの宿題を親にやってきてもらっている人がいる。先生にはすぐわかるんだ。誰とは言わないけど」だとか、「ところで、やねうら君のお父さんは、大学のセンセイ?」などと露骨に言われる。以来、偽りの厳粛さに支えられた日本教育は本質的に悪であり、かつ、戦後、教師の質や知能そのものが幼稚園児以下にまで低下してきていると思うに至る。


そうだ!こいつがやねうらおなんだ!!

この写真は当時のもの。冬休みの宿題のため、坂本龍一のスコアをアナライズし、そこで使用されている対位法、和声進行の美しさについて考察していた。写真に写っているのは、自慢の愛用ピアノと、愛人の平野裕美ならびに、執事の小金井繁蔵。このピアノが、いまやBM98用の鍵盤と化していることは言うまでもない。


小学2年の春、人工知能に興味を持ちはじめ、MIT pressを愛読する。算数の授業中、自作のニューラルネットワークモデルを用いた究極の知的推論アルゴリズムを発見。興奮のあまり、学級委員の原田君に消しゴムを投げてそれを知らせようとしたが、あかんべーをされる。以来、人類の滅亡に向けて密かに活動を開始する。

小学2年の夏休み、ふとしたきっかけで同じクラスの女の子である前田さん家に招待される。前田さんのお父さんを相手に、チョムスキーの言語理論を拡充した自然言語解析について述べ、前田さんのお母さんを相手に、自作の意味自動読解プログラムにおけるバックトラックアルゴリズムの有効性について自慢げに説明する。以来、前田家には出入り禁止となる。

小学2年の秋、人類の滅亡に向けてNASAのコンピュータへハッキングを試みるが、成功する前に2万円もの電話代の請求がNTTから来て、親からはお小遣い一生なしとの宣告を受ける。やねうらおは、いまだに小遣いがない。(あんた、小遣いもらう歳かーっちゅーの!!)

小学2年の2月20日、あまりにも簡単すぎるカリキュラムの為、学校を退学する決心をする。退学届を校長室へ持ち込むが、「やねうら君、小学校は義務教育だからやめることはできないんだ。悪いんだけども」と言われる。

諸事情により、小学3年から2年間は休学。一説によると謎の巨大組織から勧誘を受け、それをかたくなに拒み続けたために監禁されていた...らしい。ただし、そう言っているのはいまのところ本人のみである。決して、戸塚ヨットスクールに行っていたわけではない。(古いなぁ...)


 

島本夏美に詰め寄るやねうらお。

しかし、あのとき夏美は冷徹に言い放った。アタシはあなたがスカンジナビア半島...


小学5年の6月、理科の授業中、TSG(理論科学グループ/東京大学)の会報を読み、高速な環境光シミュレートアルゴリズムを思い付く。興奮のあまり、単一の乾電池を黒板に投げつけ教室中騒然となる。担任からは、放課後居残りで反省文を要求されるが、「反省文って、わら半紙じゃあな〜...市販の400字詰め原稿用紙でないとイマジネーションがインスパイアされない」と不満を漏らし、親が呼び出しを食らう。

小学5年の夏、おばあちゃんに、3度目の一生のお願いをしてパソコンを買ってもらう。ちなみに、一生のお願いが、このあと4度にも渡って行なわれることになろうとは誰にも予想がつかなかったであろう。そして買ってもらったパソコンで、メインルーチンをオールアセンブラで組んだ、縦スクロールシューティングゲームを作成。創刊当時のマイコンBASICマガジンに投稿。BASICの部分は、16進ダンプをreadしてpokeしたのち、それを実行しているだけというBASICマガジンをナメ切った自慢の作品。当然のごとく、ボツにされる。どうしてあれが没?巨大組織の陰謀だ!と町内会の盆踊りの場で叫んで回る。翌日、「うちの子少し、被害妄想ぎみなんですよ」と母親に連れられ鉄格子のある病院に入院させられそうになる。ただ、知能テストで母親を遥かに上回ったために、なんとか一命を取りとめた。

小学5年の正月、魔女っ子アニメ中毒になる。パラリンリリカルパラポラマジカルぅ〜。その勢いで、オリジナルアニメを自分で作ろうと企画。日本繊維学会誌を読み、繊維の特性値から、服飾デザインの動的シミュレーションするプログラムを作成。(風になびく服のシミュレーション等できる) このころ、阪大のCGA団体(DoGAの前身)のことを知るが、髪の毛のシミュレーションもできないようではたいしたことない、などと見下す。(いまにして思えば、お友達になっておけばよかったのにね...)


以下の写真は、やねうらおが落雷により覚醒した直後の写真。みなぎるオーラが感じられる。
その下に書いてあるセリフは当時のもの。

我、二千年の眠りより蘇り、

ふたたびこの世に君臨せん!

ふははははははは!


その後のやねうらおの凄惨ぶりを語るには、あまりにもこの場所は狭すぎる。以下は、ダイジェストでその経歴だけを記すにとどめよう。

中学時代、アーケイドゲームに目覚める。知り合い連中が、人気ゲームの全国スコアを総ナメにしているとき、誰もやらないゲームの全国スコアを狙い続けていた、やねうらお。高校受験前日も閉店までゲームセンターにいて見事に補導される。

高校時代、アーケイド版のテトリスにハマリ、3日でX1用に移植。手動マルチタスクにより二人同時プレーおよび対戦可能という作品。その他、XDOS関連のソフトをいろいろ手がける。カプコンのアタックス(パズルゲーム)をXDOS用に1日で移植。その割に、アーケイド版より利口であるという完成度を見せ、AI将棋の作者である山下氏に後日「(XDOS用の)アタックスのようなゲームは、シンプルで、人工知能の研究に面白いのでは?」と言わしめる。その後、小遣い稼ぎに超カスな教育用ソフトをいくつか手がける(某ソフトハウスより販売)

大学時代、大学は、5月病が抜けず、休みがち。出席率10%未満。週休6日。夏休み3ヶ月。結局、4年間5月病が抜けなかった情報工学科の生徒の一人である。留年率ナンバーワン(約60%)の情報工を、記録的な出席日数をもって4年で卒業した。しかも行きがけの駄賃にと、中学と高校の1種数学教育免許も取得。昼休みを利用して図書館で、筒井康隆全集、岩波の心理学、認知科学、コンピュータサイエンスを全巻読破。そして、村上春樹を敬愛するようになる。いまだに氏の著書『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる、ナツメグという女性の名づけ親は私ではないかと信じている。(たぶん違うんだろうけど)

そして社会人として、コンピュータ業界の頽廃ぶりと荒廃ぶりにあかんべーするために、コンピュータのまったく知らない人間のふりをして、製造メーカーに就職するという荒業をやってのける。製造メーカーってのが何なのかわからん人は、相川七瀬のトラブルメーカーの節で「セイ、ゾウ、メー、カーー!!」とシャウトすると何かわかるかも知れません。(うそ)


しかし、ここまで読んだ読者諸氏は、こう思っていることだろう。

結局、なんやねんな?お前!?

そう。こんなプロフィールでは何も伝わらないし、そもそも、何も伝える気はないのだ。

期待してた人、真剣に読んでた人、そして本気にしていた人、ごめん。(おらんて!?)