Chapter 1. 癒しの解剖学 ――― 『Air』/Key


1.

メッセサンオーだけで初回1万本、全国トータルでは10万本行くのではないかと言われている『Air』の売上状況を見る限り、アダルトゲーム界全般の行く末を占なう作品としてシナリオ面でも、ひとつの商品としても、一考するだけの価値は十分にあるだろう。

言うまでもなく『Air』は前作『Kanon』、もしくは同スタッフによる『One』に代表される癒し系の作品として分類される。


2.

そういや、私がKeyのオフィシャル掲示板で投げかけた疑問
【ネタばれ】1000thSummerとは何だったのか...
に対し、ある方から、
http://www.orange.wakayama.wakayama.jp/wnn/history/histry.html
にあるとおり、講堂・中門・多宝塔の伽藍(ガラン)は、多宝塔の建築が遅れたために、空海が入定してからのちに完成しました。しかし、この伽藍も正歴5年(994)に、大火によって炎上してしまいました。というご指摘をいただいた。

この事件に合わせるために正歴5年を選び、1995年の曜日が2000年の曜日と同じというギミックを使い、読者にこれは2000年なのだと錯視させたのだろうか?(このギミック自体は私の知るところ、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』で用いられ、久居つばき氏がその著書で指摘している)

ところが、よく考えてみると海の日が施行されたのは1996年からで、7月20日がゲーム中、休日扱いになっていることからも、この推測は間違っているようだ。別の方から指摘を受けたのだが、裏葉の子供(最初の使命を継ぐ者)が生まれてから1000年という解釈のほうが自然だろう。

3.

一応、関連作品と思われる『One』を簡単におさらいしておく。『One』では、人格的障害を持った主人公が、物語のなかで精神的回復を行なうことが作品の創作動機となっていたと思われる。

つまり、『One』では、母性を憎み(母ちゃん変な宗教入ってしもた..)父性を欠いた(妹の前で父親役を演じようとしたのに、妹が死んでしまったのでそれさえも叶わなかった)主人公は、母性の象徴的表現である長森を拒み続けなければ長森とのトゥルーエンドを迎えられないし(何と意地悪なゲームなんだろう!)、そしてかつてPureGirlで更科修一郎氏が指摘したように、主人公の鏡像となるべき女の子たち、それぞれが身体的ハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりであり、同情という媒介を得なければ出会いという動機を持つことができないほどに主人公の精神は病んでいたと読める。

この手の解釈は、多分にイデオロギッシュだが(父性を獲得せんとあかんてかー?そんなん誰が決めたんじゃい!?)、これらを私なりに換言すれば、癒し系のシナリオとは、ある種のサイコセラピーを、テクストのなかで実践しようという試みであり、プレイヤーの投影たる主人公の抱える心理的外傷や精神的負債を、あるときは主人公が他の登場人物との役割交換を果たすことによって、あるときは他の登場人物と相互補完によって、そしてまたあるときは代替的行為によって、解消しなくてはならないという制約的コード(=物語構成上のお約束)を礎石として成立しているのだと。

となれば、癒し系シナリオの解読は、主人公や登場人物の抱えるトラウマに着眼し、それらがどのように解消されてゆくのかを読むのがお手軽だろう。


4.

それでは、『Air』の場合はどうか?

主人公、国崎往人の旅のお供は、薄汚れた人形のみ。家族をなくし、旅の目的意識はあるものの法術という不思議な力を使う旅の少年。主人公は、対人交渉において少し不慣れな点があるものの、魂はそれほど病んでいるとは思えない。むしろ、主人公以外の登場人物のほうが、精神的に蝕ばまれている。

神尾観鈴は、仲良くなると癇癪を起こすという気質のために、孤独に苛まれていた。主人公が旅の者というのは、神尾観鈴が接触するための触媒として作用した。それは、観鈴の以下の台詞からも伺える。

 「あのひと、この町のひとじゃないよ、きっと」
 「だから、わたしのことも知らないよ」
 「わたしのこと、普通の女の子って見てくれるよ、きっと」
 「だから、わたし、話しかけてみる」

主人公に両親がいないというのは霧島佳乃の同情を引き、薄汚れた人形は遠野美凪が主人公を受け入れるための装置として働いた。つまり、主人公は、サイコセラピストとしてそれぞれの女の子(=患者)とラポール(信頼関係)を持つために武装されていた。

病んでいたのは、メインの女の子3人だけだろうか?

たとえば、霧島姉妹。姉である聖の妹の溺愛ぶり・過保護ぶりは美談などではなく、過去に妹、佳乃のために無力な自分が何もしてやれなかったことに対する贖罪にすぎない。子供の暴力が恐くて叱ることの出来ない、いまどきの母親と同じ心理的情景が展開されている。もっとも、佳乃は暴力を振るうのではなく、自殺をするという行為によって姉を間接的に脅迫しているのだが..。また、佳乃は、地元の祭りで姉に買ってもらった、亡くなった母親のもとに辿り着くための道具(=風船)の喪失が、母親の喪失と無意識下で摩り替え、優しすぎる姉を精神的負担としながらも、手首に巻かれたバンダナの魔法を信じてそれを心の支えとしながら生きてきた。彼女の信じるバンダナの魔法とは、姉が彼女の自殺を防止するために授けた嘘物語とも知らずに…。いや、佳乃は薄々そのことに勘付きながらも、自己の心の安定を図るために無意識下に抑圧していただけかも知れない。

そして、遠野美凪に至っては、母親の記憶障害(霧島の姉が説明する二重人格障害は、妹のことなどではなく、むしろ美凪の母親を説明付けるための布石か?)によって、美凪は母親の流産した女の子(=みちる)に成りすまし、母親からの愛情を獲得する必要があった。母親の人格異常はもちろんだが、母親からの愛情を受容するためにみちるに成りすます美凪は、美凪としての自分の居場所を求め、仮想妹(みちる)を現実のものとして実体化することによって、自己を精神的抑圧から解放しようとした。

ヒロイン神尾観鈴の家庭はもっと複雑だ。彼女の母親、晴子は実の母親ではない。仮想家族という意味では、遠野の仮想妹に通ずるものがあるが、誰かから優しくされると癇癪を起こす観鈴に友達はいなく、晴子でさえ観鈴に優しくしてやりたいと願いながらも、自堕落な生活を故意に行ない、観鈴から軽蔑されることによって、観鈴との距離を確保しようとする。晴子の、母親としての責任放棄は、本当はいつまでも観鈴と一緒にいたい、本当に観鈴の母親(役)になってやりたいがためであるという逆説。観鈴が困ったときに恐竜の口癖を言うのは、夜店で買ってもらえなかったひよこ(=恐竜の子供)に端を発するが、これは、トラウマというほどのものではなく、観鈴の持つ悲運な運命をプレイヤからカモフラージュするために作者が用意した罠に過ぎない。

こうして見ると、自殺を図ろうとする佳乃と、孤独を抱える観鈴によって歪められた、霧島聖と神尾晴子の家族風景が浮かび上がってくる。彼女ら二人は過保護と、非干渉というコントラストを織り成している。

そう考えていくと、主人公以外は、全員、精神的な病をどこかに抱えていると言っても過言ではない。皮肉なことに家族など持たず、対人交渉が一番苦手そうな主人公こそが、この物語のなかでは唯一正常な存在だった。これは、家族を持たない(家族を知らない)旅の若者にとっては、遠野美凪のように他者から役割を押し付けられることもなく、一番、精神的に解放されていたからかも知れない。


5.

役割分析の終わったところで、そろそろ仕掛けられた装置の解体を始める。

☆ ゲーム中、誰かの台詞の反復的回想において、ことごとく引用上のミスが目立つが、これの作為性については議論しない。別の言葉でのリプレイス(置き換え)/アペンド(付けたし)は作為的なのかも知れないが、いくつかの誤字や、「少しずつ」を「少しづつ」と歴史的仮名遣いで書いてあったりするところを見ると、それほど厳密性のあるテクストとも思えないからだ。

☆ 遠野美凪の御米券進呈という屈折した愛情表現は何を意味するのだろうか?米というキーワードからして、米を買い込む母の衝動と対を成すものと思われる。この母は、生まれてくる子供のために沢山たべさせなくては、という妄想によって揺り動かされているのだろう。よって、その米を消費するという行動は、みちるになりすますという行為の一環として説明できる。

☆ 神尾晴子の、観鈴を愛しているゆえに、愛していないように振舞わなくてはならないという二律背反の解消が、観鈴シナリオのフレームとしてあり、そのモチーフを千年前を舞台に理由付け(第二部)し、プレイヤを往人から観鈴の視点を持つ者として、カラスにすることによって、主客転倒と視座変換に成功(第三部)している。

☆ 文体は、無機質で透明感のある美しい文章だと言える。たとえば、美凪のイベントで、

 壊れてしまいそうなほど小さな凪が、海に夜のとぼりをおろしはじめていた。
 夕凪の穏やかな時間が終わりを告げる。
 美凪「すみません」
 美凪は、口元に手をやり、そのまま屋上を出ていってしまった。

というシーンがあるが、風景描写を示すはずの前2行が、そのあとの美凪の退場を示唆する予期的叙述(prolepsis)になっている。風景描写と心理描写を重奏的に表現するのは珍しい技法ではないが、美凪イベントで多用してある。このような文体表現を目指すために「美凪」という名前が選ばれたと考えても良いだろう。

☆ 「みちる」の名前の由来は何か?遠野エピローグにおいて、遠野みちるに対する母親の価値の転換が伺える。流産した我が子の名というネガティブな価値から、大切な我が子の名というポジティブな価値へ。みちる=満ちる=「寂しさを満たす役割を担う因子」というメタファーを成立させることによって、別れた父が別の女と再婚してまで自分の子をみちると名づけ、それを遠野美凪と引き合わせるという物語原動力としている。

☆ 「観鈴」と「佳乃」の名前の由来は、よくわからないが、観鈴のほうは第2部で神奈がつけていた響音鈴(こなれ)に通ずるものがあるだろう。

☆ 美凪のクラブ活動が天文部というのは、星=父の面影を意味するからだ。母親が自分のことを忘れ、自分の居場所がなくなると美凪は学校の屋上にいた。それは、母からの愛情が得られないとわかると、今度は父親からの愛情を代替的に獲得しようとしたからに他ならない。

☆ あるプレイヤにとっては、カラスへの転生もまた、批判の対象かも知れない。それは、『Air』をありがちな恋愛成就物語と勘違いしたプレイヤならなおさらだろう。違うのだ。この物語は、家庭という最小構成単位を核にして、展開していたのだ。そして、3つの家庭(神尾・霧島・遠野)の娘は、誰もが重度の精神的な病いを抱えていた。それゆえ彼女らの家庭は歪められていた。あるいは、家庭が歪められていたからこそ、彼女達は精神的な病を抱えていた。彼女らの病の解消こそが、この物語のモチベーションであったと読んではいけないだろうか?


6.

ゲームとしてはどうか?

選択分岐の少なさ(特に第2章については皆無)、ゲーム性のなさも批難の対象かも知れない。まあ、ノベルなのだから、それほど選択分岐によってゲーム難易度をいたずらに上げても仕方ないという意味もある。

しかし、シナリオの構成としては、やはり無理があるのは否めない。物語全体の崩壊を、『One』では“永遠”、『Kanon』では“奇蹟”で食い止めようとしたの同様、今回は“翼人”の存在によって、随所で破綻しているシナリオを無理にまとめあげたに過ぎない。

それは、これがヒロイン観鈴のストーリーであって、美凪・佳乃は、あくまでサイドストーリーかつ単独のストーリーであることからも伺えし、神尾晴子が、観鈴との失われた時間(もっと優しく接してあげればよかっただとか、誕生日プレゼントを観鈴にあげたことなど一度もないだとかそういう母親としての義務の放棄)を取り戻すために、作者は“翼人”という超存在を持ち出し、観鈴の記憶を無理矢理喪失させることによって、擬似的に観鈴との“やりなおし”を可能とした。

『One』のとき同様の取って付けたようなエンディングも、わかりにくすぎる。このわかりにくさが、オフィシャル掲示板をはじめとして、さまざまな場所で議論を醸し出しているが、物語というのは、解釈の自由度が高ければいいというものでもないし、解釈できる最小限度の種だけを蒔いてあればいいというものでもない。もちろん、説明的であればいいというものでもないが…。むしろ、シナリオ内部における言及の少なさからすれば、そのへんにはあまり力点を置いていないようにも感じられる。私自身も、それほど興味はないので、エンディングおよび翼人に対する解釈・議論は、ここでは行なわない。

また、オープニング(PureGirl,コンプティークで発売前におまけとしてついてきたデモと、ほぼ同じ内容)で流れるシーンに、エンディングシーンをふんだんに散りばめてあるのは瞠目に値する。パッケージで座っている観鈴が描かれているのにしても、物語のラストで観鈴が歩けなくなることを暗示しているのだろう。エンディングCGをオープニングで流すという一種のタブーをあえて犯すことによって、少ないCG枚数のなかでなんとかやりくりしようとする姿勢が伺えるし、それによって表現の幅を広げているとも言える。テレビドラマにおいてイントロで物語のクライマックスを流すのは、いまや珍しくないわけだし、パソコンのゲームもそういうレベルまで来たのだとも言える。


7.

同業者としては、簡単に現象学的考察をしておかなければならないだろう。

今回、『Air』の販売によって、メッセサンオーには長蛇の列が出来た。メッセサンオーのみの初回特典「等身大ポップ」等によるものだとも思われるが、この長蛇の列はドラクエのそれよりも長かった。

シナリオについては、『Air』を恋愛成就の―――いわゆるラブストーリーだと思っていた人にはお気の毒だが、悪い気はしない。しかし、こういう作られた“癒し”を、商品として大量消費しなくてはならない、いまどきの若者(一応、やねうらおもこの集合の中に入れてくれ!)ってのは、一体なんなのだろう?

本当は、この部分こそが一番突っ込んで考えなければならない課題なのだがそれを書き出すと、本稿より長くなるのでそのへんはワイドショーで少年犯罪の報道でも見ながら推して知るべしである。


エクリチュールとしてのテクストのもつ特殊性は、固有名の喪失、父性の不在にこそある。
つまり、エクリチュールは、常に既に孤児であり、常に既に父親殺しなのだ。
―――S.コフマン